実用品として使われてきた道具は魅力的だ。
それはいわゆる「機能美」というものとはちょっと違う。長く使われてきた道具にはかつての使用者のストーリーが宿っており、その魅力とは使い込まれた風貌から醸し出される「空気感」のようなものだと思う。
今回はそんな「空気感」を持つ刷毛(ハケ)の話だ。

数年前、僕は毎週のように骨董市に足を運んでいた。
さらには別にプロでもないのに、仕事やプライベートでヨーロッパに行く機会があろうものなら必ず現地の蚤の市へ行き、ガラクタが詰まったダンボールの中から自分の好きなものを探したりと、結構なのめり込み方をしていたのである。
はじめに断っておくと、古い物を買うことは好き嫌いがかなりあると思う。潔癖症の人はまず間違いなく毛嫌いするだろうし、そもそも「味がある」と「汚れている」は紙一重(と言うか主観)なので、好みでない人たちからすると、それらはただのガラクタだ。
加えて値段もあってないようなもので、ある程度の相場はあるものの、大部分は店主の主観で決められる。彼らは同じ骨董市の中で仕入れることもあり、別なブースで仕入れたものを同じ市で売っていることなんてザラにある。それほど価値が流動的なのだ。
一方で自分の感性を信じて買い物をする事が、骨董市の醍醐味とも言える。市場価値は気にせず、自分がいいと思ったものを買うのである。そこには比較対象は存在せず、かっこよく言えばその商品と一対一の真剣勝負だ。
もちろん失敗する事は沢山あるし、家族からの「ただ汚いだけじゃない?」という冷たい視線を覚悟する必要はあるが、自分が納得のいく買い物ができときの喜びは何事にもかえがたいのだ。
さて、ハケに話題を戻そう。子供が生まれてからというもの、めっきり足が遠のいていた骨董市であったが、一昨年何の気もなく久々に大江戸骨董市に行ったときに出会ったのがこのフランスからやってきた、アンティークのハケだ。
その日僕は特に欲しいものもなくフラフラと骨董市を歩いていた。以前であれば朝一から必死の形相で見て周り、いいものをひとつでも多く買いたい人間だったのだけれど、この日は「久々に寄ってみるか」ぐらいの気持ちで、時間帯もお昼過ぎだった記憶がある。(ちなみにプロの人達は朝一見て回ってめぼしいものを物色しているので、お昼過ぎに行くと大抵あまりピンとくるものがない)
個人的に骨董市は「これが欲しい」と決めて行かない方がいいと思っている。雰囲気や佇まいが気に入ったものを見つけたら、後付けで使い道を考える方がワクワクするからだ。
そんな時にふと目に入ったのがこのハケである。それは小さなブースの棚の上に控えめに並んでいた。女性の店主が言うには、フランスでその昔画家が住んでいた家が解体され、そこからまとめてマーケットに出ていた物らしい、7つ同じようなハケを仕入れており、その中の最後のひとつだそうだ。
ペンキの付き具合と使い込まれた木の道具特有の丸みが自分好みでいいなと思い、値段を聞いてみると12,000円とのこと。
おそらくヴィンテージやアンティークに興味の無い人は、「こんな古ぼけたガラクタのようなハケに12,000円なんてクレイジーだ!」と思うであろう。
しかしたくさん似たような商品があり、需給のバランスによって価格が決まるFMCGとは違い、店主が決めた価格が絶対なのが骨董市の醍醐味。
僕は骨董を買う時の様式美として少し悩むフリをしながら店主と話し、僕はこのペンキまみれのハケを買うことに決めた。このハケに第二の人生を与えることにしたのだ。

僕は家に着くと封を開き、彼の(男性で正しいかはわからないが)セカンドキャリアについて考え始める。「毛の部分もかなり綺麗に残ってるし、本来の役割に近い、デスクを掃くためのブラシとして使おうか。」
はたまた
「あえてその雰囲気を最大限に活かしてもらうために、オブジェとして棚に飾ろうか。」
そんな彼の使い道を考える、いわば古道具好きの醍醐味と言える時間をひとしきり楽しんだあと、僕は彼に「オブジェ」としてのセカンドキャリアを与えることに決めた。
こうして彼にとっての初めてのジョブチェンジはフランスから遠く離れた日本の地で、しかも今までとは全く関係のない役割である「オブジェ」となった。
でもこの年月を経てきた「空気感」がもたらす雰囲気はその辺のアートにも負けていない。
フランスからやってきたハケは、オールドルーキーとして、自信ありげに今日も我が家の棚にそっと佇んでいる。
しかし残念なことに「味ではなく汚れ派」であるパートナーの評価は低い。。
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